三代目川越太郎が武蔵小山温泉の今昔物語をお伝えしてまいります。
武蔵小山の地に生まれた川越実喜(じつき)は江戸っ子らしく頑固だけど真面目で働き者、妻うた子も気立てが良く笑顔の似合う番台美人でした。実喜とうた子は、二人力を合わせて共に支え合いながら、竹林が広がる昔ながらの田園風景が残る武蔵野の東部、下町情緒と人情味溢れる庶民的な町、武蔵小山で大正13年に銭湯を始めました。
毎日家一軒分の廃材を燃やしながら、地域に根差した皆様に愛される清水湯を育んでいったのです。
しかし当初は一日1000人以上いたお客様も銭湯の衰亡が高度経済成長とともに進むと100人程度まで落ち、物心付いたころから「いつも貸切のお風呂だー」と喜んでいた私は、成長とともに閑古鳥という言葉を身を以て知りました。
日本の銭湯の数は昭和43年の2,687軒をピークに平成20年4月時点では約900軒まで激減し、22年ではついに800件を下回っています。
事業は創業が一番大変だと言われていますが、衰退しきった銭湯を復活させることがどれだけ大変だったか、端で見ていた私は忘れることは無いでしょう・・。
模様替え、改装をしても当初はいいのですが、すぐに人気がなくなってしまう。結局いつまでも堂々巡り。
正直私も、なんて因果な商売だと銭湯の将来に期待をしていませんでした。しかし忘れもしないある朝、突然二代目が「温泉を掘る!」と、とんでもないことを言い出したのです。何を血迷ったかと家族全員で反対。
しかし二代目の決意は固く、ついに温泉の掘削工事が始まりました。
その時の二代目の心境を後から聞いたのですが、清水湯を「閉めるか!続けるか!」の悩んだ末の苦渋の決断だったそうです。
このまま銭湯を続けるより、他の銭湯がしていたようにマンションにしてしまおうかと真剣に考えていたということでした。
しかし腹を決めて最後の賭け、つまり品川に温泉が出るなど誰も想像したことのない“伸るか反るか”の大勝負に打って出たのです。
当時、大田区などでは黒湯はありましたが品川には出ないと言われていました。
平成6年に第一源泉の天然黒湯温泉の採掘成功。その賭けは見事的中したわけです!
温泉が湧出した当時、母親が食事中、急に大笑いをしていたことを思い出します。よっぽど嬉しかったんでしょう。
絶体絶命の断崖絶壁からどんでん返しの大逆転勝利をし、お客様の数は3倍に増加。現在の武蔵小山温泉清水湯の礎になりました。
天然黒湯温泉が出てしばらくの事、ある日、二代目から「風呂屋をやる気はあるか?」と聞かれました。
当時20代中頃だった私は、迷わず「やる」と答えました。
長男ゆえ、子供の頃からいつかは継がないといけないと考えていたからです。
その時、「やるからにはお客様、ひとりひとりを大切にする、地域に貢献できる最高の銭湯を創れ」と厳命されました。
家業を継いだ私はまず、天然温泉は出たが老朽化の激しかった銭湯を建替えるという事から手を付けようと考えました。
当時はまだ借地だったのですが、このまま借地では銭湯の建替えは無理と考え、紆余曲折がありましたが平成17年に10年の歳月をかけて土地を取得。
これも両親や家族の支え、また折々に励まし支えてくれた友人、近隣の方々のおかげと感謝しております。
母や妻も「おじいちゃん、おばあちゃんや沢山のお客様の笑顔が見られるのが楽しみ」と喜んでくれました。
清水湯を継いで以来、常に心がけていることがあります。
前出のように二代目の言葉「地域に貢献」「ひとりひとりのお客様を大事にする」という二点。 加えて銭湯復興の新しい存在価値を創ることです。
その思いから、「そうだ2つ温泉があってもいいじゃないか」と平成19年に第二源泉の黄金の湯を掘削したところ、都内屈指の療養泉が湧出。
「銭湯でもかけ流しがあってもいいじゃないか」と全浴槽かけ流しにし(一部循環併用)、「ナノバブルもいいぞ」と22年には天然黒湯温泉のナノバブル化に成功。 常にお客様第一で武蔵小山温泉は独自の銭湯健康哲学を基に邁進しています。
大震災の以前より、耐火、耐震化にも力を入れております。 3階建ての鉄筋コンクリート造には通常2倍の基礎杭、合計30本が建物躯体を支えており、自家発電機、放水機等も独自で常備しています。
今後も更に地域に貢献のできる健康、癒し、美容、活力、(QOL)健康生活向上増進を主体に、このホームページ、Facebook、Twitterなどをフル活用してお得情報を発信し、お客様のご意見をどんどん取り入れていきたいと考えます。
結びに、平成20年5月18日リニューアルオープンに至ってから、今は懐かしい番台からフロントになった現在、更にお客様の沢山の笑顔を見ることが出来て
本当にこの銭湯の道を進んで良かったと心から感謝しております。